今回は、3月1日から3日までせんだいメディアテーク7階で行われていた「3がつ11にちをわすれないためにセンター映像作品上映」と連携した形をとり、同センターに納められた映像から5本を上映し、撮影者の方にも会場でお話を伺いました。
まず前半は、これまで毎回こえシネマで取り上げてきた陸前高田で撮影されたフィクション作品「測量技師たち」(監督:志子田勇)から始まり、次に仙台市沿岸部のがれき撤去の作業と蒲生地区のがれき処理場を撮影した「仙台のがれき撤去」(監督:高野裕之)の15分ほど抜粋した映像と、現在仙台でノイズ音楽をやっている男性を主人公に、震災当時東北にいなかった人と震災との関わりを映した「迷走する柳の葉を追いかけんとする熊の子」(制作:中谷可奈)を上映しました。
後半は、石巻出身の友人を案内役に、大川小学校など石巻と女川を巡って記録した「過去を見直して、今を見つめる」(制作:杉本健二)と、岩手県・宮城県・福島県の沿岸部の人と風景の記録「沿岸部の風景」(監督:鈴尾啓太)を、いずれも15分ほど一部抜粋の形で上映しました。
今回の撮影者は、仙台出身で現在も住んでいる高野さん、東京在住の鈴尾さん、志子田さん、震災当時はロンドンにいて震災後に仙台で就職した中谷さん、愛知県出身で進学のため震災後に仙台に住むようになった杉本さんと、被災地との関わり方がそれぞれ違っていて、高野さんから「他の人たちの記録では、自分が実際に知っている場所が、見たこともない世界のように見えるところがあった。それは、僕が被災地にいても全然見えていない部分があって、被災地外の人でないと見えない部分があるのではないかと思った」という感想が出てきたことは興味深い点でした。
とはいえ、今回上映した5本を振り返ってみると、「被災地に住んでいる/いない」といったことや「自分の目で見ていること/テレビなどのマスコミを通して目にすること」といった、こえシネマ開催のテーマでもある、何かと何かの間にある「距離」がただ明確になるというよりは、鈴尾さんが「報道からこぼれる『情報』でないもの、言語化されにくいもの、仮に僕じゃなくても誰かそこにいたら目にするであろうものを撮る必要があると思っている」と話していたように、それぞれの映像から「距離」であるとか「間」をどうにかして埋めようとする姿勢が垣間見えていたように思います。
そういった中で、何人かの撮影者が「震災という出来事をわかったように撮りたくなかった。人によって震災の経験もバラバラ、地域によって問題も違っている中で、言語化や断定するのではなく、模索や考えるきっかけとして映像を撮った。」と共通する話をしていたのは印象的でした。そういう映像に対して、疑問を投げかける声も会場からは聞かれましたが、静岡に住んでいるという方からは、「迷走する柳の葉を・・・」について「私は、被災地に対して自分に何ができるのかという葛藤のようなものを抱えているが、映像にそういったことがストレートに出ていて共感するところがあった」という感想がありました。